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創業ストーリー

ちいき新聞創業のストーリーをご紹介します。

ちいき新聞物語

プロローグ

 そのころは、もうすぐ5歳になる長女と、まだおむつをしていた一歳半の二女がいた31歳の私は専業主婦6年目で子育てにドップリ漬かっていた。そんなある日、会社から戻った主人に、「会社を辞めたい」と、神妙な面持ちで話をされた。

蒸し暑い夜だった。しばらく沈黙が続き、「やめて何をしたいの?」と聞くのがやっとだった。すると彼は間髪入れずに「お前と一緒に仕事がしたい!共通の話題がほしい!」と熱く語った…。その熱い思いは、かなり鈍い私にも伝わった。が、生活はどうするんだろうか、一緒の仕事ってなに?頭の中は「?マーク」で埋め尽くされた。結局その日は「やだ」の一言で終わった。でもその説得は日増しに熱く、日毎に熱く続き、その期間は1ヶ月に及んだ。言い出したら聞かない性格は知っているものの、なんで子どもが小さい今なの?と反発も強かった。けれど熱い思いに包み込まれるように『後を振り返れない分二人で前に進んで行くしかないのかな』という気持ちでいっぱいになっていた。
「頼む!一緒に仕事してくれ」と頭を下げる主人に「ウン!」と言ってしまった。

地域新聞誕生

 1ヶ月の説明期間に、地元に密着した仕事として地域新聞の原型が出来上がっていた。主人は記事集めと無料配布のための広告を探すためにバイクで飛び回る。が、どこに行ったら記事の取材ができるのかさえわからない。海のものとも山のものとも分からない地域新聞に広告を出してはくれない。知り合いも少ない。

そんな中、短くそして細いツテを頼りにがむしゃらだった。ある日、飛び込みから帰った主人は落ち込んでいた。1時間も説明を聞いてくれた後に、「こんな新聞3ヶ月ともたないから早くやめて別の仕事に就きなさい。なにか紹介しようか?」と言われた…と。聞いて二人で悔し泣きをした。ホントに悔しかった。でも、その方は広告を出して下さった。それはそれは最高にうれしかった。二人で万歳したりハイタッチして喜んだ。
私はと言うと運転免許を持っていたので配布員さんの受付けと配達を受け持った。
広告の受け付けも手伝ったが、社会経験も少ない専業主婦だった私は世間をよく知らない。予想がつく電話は気持ちよく取れる。しかし、「新聞を入れるな!」と開口一番怒鳴られようものなら、どうしていいか分からない。たまたま横で記事の原稿を書いていた主人に、電話の口を両手でしっかりふさぎ、相手には聞こえないようにして「怒っている!この人最高に怒っている!」と受話器を突き出すしかなかった。電話保留機能もないころだ。そんなシーンが何度もあった。

初心のみそおにぎり

 そんなこんなで花見川団地の四畳半からスタートした「八千代地域新聞」は、八千代台・花見川団地・作新台・柏井町の22,000部。親から借りた200万円は、またたく間に印刷代や配布員さんに支払う配布料で消えた。全くお金がなくなった。でも新聞を待っていてくれる人が必ずいるはず!との思いで発行を休むわけにはいかなかった。一回の発行で印刷代その他の原価が二十八万円かかるのに、その号の収入はひと口広告の1,800円のみ、ということもあった。印刷代の支払いを待ってもらったりして発行を続けることができた。

 お米もなくなった。幸いに実家からお米とみそが送られてきた。その荷物の中には缶詰や乾物も入っていた。心からありがたいと思っていた。PR版、創刊号。発行し続けて約3ケ月間、全くお金がなかった。送られてきた救援物資もすぐに底をつく。毎日毎日みそおにぎりを作った。それでも子どもたちは来る日も来る日も「おかあさん今日は何?」と聞いてくる。心苦しい私は、そんなに毎日聞かないでと心で叫びつつも「みそおにぎりだヨーン」と答える。すると子どもたちは毎日ピョンピョン飛び跳ねて「ヤッタ!!ヤッタ!!」と。そんな子どもたちに、私たちは随分助けられた。

 その年の暮れ、大晦日もみそおにぎりの予定だった。最後の仕事を終えて子どもたちと帰った私は、玄関の棚にポンと置かれた包みが気になった。結び目は解かないで中をのぞき込んだ。すると、それまで見たこともない中華おせちの大ごちそうだ。でもどちらかにお持ちするものならと、ソッとそのままにした。下に下ろそうものなら子どもたちの餌食だ。夕方帰宅した主人にアレは?と恐る恐る聞いてみると、お客さまから頂いたと。紅白はみそおにぎりを食べながらの予定が、大変なごちそうを目の前にしながらとなった。以来、毎年大晦日を迎えるたびに、お供えのように小さなみそおにぎりもテーブルにのっている。初心を忘れないようにしようネの気持ちで。そのお供えを子どもたちが喜んで食べてくれるのも変わらない。

家族の力

 仕事を始めてしばらくすると、お客さまに、できた広告の確認をしていただく校正と集金が私の仕事に加わった。ご近所の方に行きつけの美容院を紹介され、まず主人が、広告内容の打ち合わせに行き、次の校正は私が伺った。背中には二女をおんぶして化粧っ気は全くなく、頭は自然に伸びた髪の毛を無造作に束ね、動きやすいジーパンとトレーナーといういでたちで。校正も集金も無事済んだ。そして次回の打ち合わせに行った主人は、その美容院の先生から「奥さん、なんとかしてあげれば?」と言われたことを数年経って、「あんときは悔しかった」と話してくれた。すぐには言えなかったのだ。スーツ姿で打ち合わせをする主人と私の姿とのギャップがあまりにもスゴイので、集金の際、この人にお金を渡していいのだろうか?と不安を隠し切れない正直なお客さまも少なくなかった。

 ある日、長女が40度もの熱を出した。私は配布員さんに出来上がった新聞を届ける日だった。朝から食欲がない、グッタリしている。お医者にも連れて行く時間がない。アイス食べる?ジュース飲む?何を聞いても首を横に振るばかり。何か食べたいものある?と尋ねると、ちっちゃな声で「い・ち・ご」と力を振り絞って言ってくれたのに、家にはお金がない。あらゆる引き出しを捜して1円・5円をかき集め642円になった。まだまだ高価な11月だ。買えるかどうか不安な気持ちいっぱいで、頭をなでながら「おかあさん、お仕事をはや~く終わらせて、いちご買ってくるから、おりこうさんで寝ててネ」。何もしてあげられない自分が歯がゆかった。38軒の配達を終え、一目散に安いと評判のお店に向かった。あった!!

 一パック600円、買えた。娘の喜ぶ顔が早く見たくてスピード違反で捕まりそうなくらい急いだ。まず二女を昼寝させ、口を一つ減らしてから長女を抱っこして、いちごを食べさせた。「おいしい!おいしい!」私は、ただただ涙をこらえて良かったネと何回も頭をなでては抱きしめていた。発行十号を迎え、取材先がまだまだままならなかったころ。面白い運動会があるから話を聞きにおいでと電話が入った。ありがたかった。ただ、取材先の住所が少し遠く夕方の七時ということだけが気になった。四時ごろから冷たい雨も降ってきた。自宅から取材先までかっぱを着てバイクで行く主人を思ったら私が車で一緒に行くしかない。夕方私が出るということは子どもたちも一緒ということになる。まるで家族で楽しむドライブみたいだった。取材の場所に着き、ゾロゾロみんなで入っていった。「すみません、家族で取材に伺いました」と。ご夫婦は笑顔で迎えてくれた。帰りには子どもたちにおみやげまでくださった。私もこんなふうになりたいと思った。

 何回か発行するうちに、午前中に新聞を梱包して、お昼を食べて二女を連れて配達に出かけるリズムが出てきた。そのころだった。前の晩に夜なべ仕事でチラシを梱包し終えていたが、配達当日の朝、どうしてもというお客さまから電話を頂き、急いで引き取りに行ってバタバタと新聞とチラシを梱包し、三階のオフィスから車に積み終えたのは午後の1時30分をまわっていた。配布員さんの所で降ろしやすいように私が積み込む間、救援物資に入っていたインスタントラーメンを主人が作ってくれていた。「食べてから行け!」「もう時間がないから行く!」の、押し問答を繰り返しながら積み込んで、行ってきますのあいさつのために部屋に戻ると、ラーメンが熱くては食べにくいと思ったのか、ラーメンをすくってはフーッ、すくってはフーッと冷ましてくれていた。私はこの人のために、どんな手伝いができるんだろうと胸が熱くなった。

家族から会社へ

 初めのころは誤字・脱字が多かったが手伝ってくれる人も徐々に増えていった。
2年ほど経ったころに「この新聞、デザインの手が入っていないのでは…。何かお手伝いできることはありませんか?」と、デザイナーが入社してくれた。またしばらくすると「この新聞には校正の手が入っていないと思うのですが、お手伝いできることはありませんか?」と、校正を引き受けてくれる人が現れた。実際、始めた時には、校正ってナニ?二色分解って、どーゆうの?そんな状態だったから怖い。

 だんだんスタッフが増えていった。次女が幼稚園から帰ってくると仕事の合間を縫って遊び相手をしてくれる人もいた。手をつないで買い物に行ってくれたこともあった。我が家の子供達は会社で育てられたに違いない。

 スタッフ二名からスタートした地域新聞も、従業員が増えた。
時折、ムーミンを呼ぶように「ネーセンム」と呼ばれる。メッセージの前にはセンムへ!!と書いてあり、これは私のあだ名だと思っている。いつも夜遅くまで仕事をしているみんなを見ていると、夜食を作りたくなる。おにぎりや焼きそば、サンドイッチを大量に作って帰ることも。朝ごはんを食べないで出社する人もいる。たまに、おにぎりや煮物持参で出社することもある。一生懸命仕事をする彼らにホンの少しの恩返しだ。

 平成10年8月、成田支社開設。一年間、お手伝いに成田まで通った。足を引っ張らないように、それだけ気をつけて。時々おにぎりを持参したり、食事を用意することもできた。

 平成11年12月には船橋支社開設。こちらもやっぱり、おにぎり持参で駆けつけることもある。どんなに支社が増えようとも、おにぎりを持って駆け回りたい!

 私の夢は、もし社員食堂ができたら、その賄いさんになること。いつでも温かいおにぎりと焼きそばしかないかもしれないが。

エピローグ

 それは娘からだった。

 長い手紙には、「子育て20年間ありがとうございました。育ててくれてありがとう。お父さんとお母さんの子どもに生まれて良かったです。明日で私は20歳になります。二人で子育て20年を記念して食事に行ってください。できれば大好きなおすしを食べてくれるとうれしいな。バイトで貯めたお金です」と1万円が入っていた。これには泣かされた二人とも。何にもしてあげられなかったのに、いつの間にかこんなに大人になって…と感無量だった。すぐに娘のケイタイにかけて、たったひと言しか言えなかった。「おつりがくるほど、いい子に育ったヨ」涙をこらえてやっと。娘の誕生日におすしを食べに行ったけど入っていた1万円は使えなかった。

 新聞を発行し始めて、たくさんの方に支えられて今まできました。地域新聞を楽しみに待っていて下さる読者の皆さま、広告を出して下さるお客さま、一軒一軒配布して下さる配布員の皆さま、そして、温かく見守っていて下さった皆さま、ホントにたくさんの方々に助けていただきました。感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。

これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

※創業からのエピソードを元専務取締役 近間久子さんが創業パートナーとして、妻として、二児の母として書かれたものです。発行1,000号を記念して2000/1/14号に掲載されました。